Uyeda Jeweller
Column
和洋ジュエリー手帖
vol.6

ジュエリー ― 時代の美意識を物語る美術

関 昭郎




語られてこなかった日本ジュエリーの歴史

「都の花」1889年(明治22年)石版画
「都の花」1889年(明治22年)石版画 京橋区銀座にて発行
(天地64cm×左右50cm)日本宝飾クラフト学院蔵
ウエダの創業当時、鹿鳴館時代の日本の皇族、華族や外交官夫人の着用するフォーマルなドレスはバッスルスタイル。装身具は、ネックレスやブローチなど。

「いつから日本にジュエリーがあったのか」と言う疑問に答えるため、2005年に東京都庭園美術館で、「日本のジュエリー100年」という展覧会を企画しました。ご存じのように、戦前期に養殖真珠が世界を席巻したり、20世紀の終わり頃にはアメリカに次ぐ、世界第2のジュエリー消費国であったりと日本にあってジュエリー産業は大変重要なのですが、意外にも幕末・明治維新から、1960年代の高度経済成長がスタートするまで、その歴史を通して語られたことはそれまでなかったようでした。
いつからと言う疑問に最初に答えてしまうと、わずかな例外を除けば、欧米スタイルのジュエリーは江戸時代以前には日本にはなく、それらがもたらされたのは、幕末の開国、すなわち安政5年(1858年)に、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に結ばれた、いわゆる安政五カ国条約の後と言って良いと思います。

ただし、その普及のスピードは私たちが考えていた以上のものがありました。
まず、その実用性ゆえに懐中時計は早くから使われました。榎本武揚や土方歳三ら、胸元に時計鎖を付けた洋装の幕臣たちの誇らしげな写真からは、時計には実用品以上の意味があったことが伝わります。
女性向けのジュエリーでは、明治5年(1872年)には皇后のための装身具類がフランスから届けられたことが記録に残っています。
なお、展覧会を行った2005年の時点では、皇后着用の星をモチーフとしたティアラもこのフランスからの装身具類に含まれると考えていましたが、その後、文化女子大学の高木陽子教授の研究で、このティアラと三連のダイヤモンド・リヴィエール(全周にダイヤモンドをつないだネックレス)は、明治20年(1887年)に注文したベルリンのレオンハード&フィーゲル製であることが濃厚になりました。

横浜などの外国商館などがジュエリーを取り扱っていましたが、図版のある資料は見当たらないため、それらがどのようなものであったのかは分かりません。ようやく宝石店の絵入り広告は、帝国憲法が発布された翌年の明治23年(1890年)に登場します。そこから、フープの半分に石を嵌めたハーフフープのリングなど、ヴィクトリア朝に流行したデザインのものが売られていたことが分かります。
それが明治40年(1907年)の広告では、ベル・エポック様式、すなわちイギリスではエドワード朝様式と呼ぶスタイルに変化しています。おそらく地金も、金から、プラチナへと変化していたでしょう。これらの広告からは、まさに同時代のジュエリーが、時差なく西欧からもたらされていたことが分かります。

同展は、長年にわたって、日本のジュエリー産業関連の文献資料を収集、研究をされてきた日本宝飾クラフト学院の露木宏理事長のご協力がなければ成し得ませんでした。特に広告資料については、露木先生の資料から多くのことを知ることができました。
一方の国内のジュエリー産業もかなり早くから始まっていました。日本政府が初めて参加した、明治6年(1873年)のウィーン万博には242点もの装身具が出展されていました。決定的に金工家たちの転身を促したのが、明治9年(1876年)の廃刀令と言われますが、この博覧会はそれより以前のことなのです。

ヨーロッパの美術館には、打ち出しや象嵌、煮色着色など、日本の伝統的な装剣金工の技術で作られたジュエリーが残されています。ジャポニスム(日本美術愛好熱、およびヨーロッパ美術へのその影響)自体は、20世紀初頭まで続きましたが、これらはジュエリーのスタイルだけから考えると1885年以前のものと推定されます。金工の伝統技法を使って、欧米式のジュエリーを作らせるプロデューサーのような人物がいたであろうことは大いに興味をかき立てます。

展覧会の準備では、多くの下絵類を調査することができました。すると東京美術学校(東京藝術大学の前身)の教授であった海野勝珉や香川勝廣、あるいは金沢の山川孝次ら、そうそうたる名工たちがジュエリーを手がけていたことが分かりました。明治の工芸は、その頃にはすでに再評価が始まっていましたが、金工家のジュエリーに関わる仕事についてはそれまで見過ごされてきたようです。

目貫風帯留め(明治から昭和初期)
目貫風帯留め(明治から昭和初期)
白山子光長(1850 年~1923 年)作。蘭の目貫風帯留め。細密画に見られるような、細部に至るまでの緻密な植物描写と、小さく愛らしいものに愛情を注ぐ日本人らしさが生きた逸品。K18 ・赤銅(しゃくどう)。明治から昭和初期頃。
鈴木美彦作帯留め(大正から昭和初期)
鈴木美彦作帯留め(大正から昭和初期)
鈴木美彦(1884 年~1969 年)作、松ぼっくりをかたどった帯留め。細密画に見られるような、細部に至るまでの緻密な植物描写と、小さく愛らしいものに愛情を注ぐ日本人らしさが生きた逸品。素銅(すあか)・K18。

尾張七宝とウエダジュエラー

展覧会では独特な美意識から作られた多くの日本のジュエリーをお見せすることができました。これは展覧会の準備を始めたころには想像できなかった奇跡的なことでした。大変多方面の分野の方々が、様々な形でジュエリーに愛情を注いでいることを知りました。
ウエダジュエラーの植田友宏さんも、その一人で、展覧会で積極的にご協力をくださったからだけでなく、展覧会終了後も、ウエダジュエラーの歴史的な製品を集めるなど情熱を持ち続けておられます。
私は、そのなかでウエダジュエラーに寄贈された徳川喜和子様のブレスレットに大変興味を持ちました。

徳川喜和子様ご使用の銀製・平戸細工のブレスレット(昭和20年前後)
徳川喜和子様ご使用の銀製・平戸細工のブレスレット(昭和20年前後)
徳川喜和子様ご使用の銀製・平戸細工のブレスレット(昭和20年前後)
徳川喜和子様(徳川慶喜の孫であり、高松宮妃とは従姉妹、1910.10.31-1997.8.21)がご愛用されていた銀製ブレスレット。ウエダが創業当時得意としていた非常に珍しい平戸細工のもので、K.UYEDA の刻印が入っている。とても繊細な花柄の銀線細工が施されており、徳川喜和子様の洗練されたセンスが偲ばれる。

美しいたたずまいだけでなく、私が興味を惹かれたのはその独特な技術でした。秋田の銀線細工のような撚線を使ったフィリグリー(細線細工)とは異なって、これは平らな薄い銀線で作られています。実はこれは、有線七宝の「植線」と言うプロセスのための技術が応用されています。有線七宝の図柄は、銅製の器に銀などの金属線を貼り付け、そのなかに色とりどりのガラス質の粉を詰めて出来上がります。このブレスレットは線を貼り付けるための金属板を無くすことで、透かし文様とするために銀線同士をしっかりとロウ付けしてあります。他には見ない、独特なジュエリーですが、これはウエダジュエラーの初代吉五郎の妻、はなの祖父、桑原熊吉の作と言われ、熊吉が尾張七宝の名工であったと言うことで納得がいきます。熊吉は、吉五郎に「おれが外国人向きの商品をつくるから売ってみたら」と言ったそうです。明治17年に吉五郎が植田商店を立ち上げた、同じ頃には日本独自の透明感のある色彩と細かな技術が確立され、七宝は日本を訪れる外国人がこぞって求めた人気の美術品となっていきます。この名工の言葉には、そうした自信が伝わってきます。

平戸細工の帯留め(明治後期から大正時代)
平戸細工の帯留め(明治後期から大正時代)
中央のアメジストを囲むように平戸細工(銀製細工)が施された帯留めは大正時代の作品。恐らくウエダの刻印が入った作品の中では最古のもの。当時の社名の刻印は漢字。ウエダジュエラー製。

戦前期の装身具の面白さは、素材と技術の多様性、そしてモチーフのユニークさにあります。すでに述べたように金工家をはじめ、漆や芝山象嵌などの象牙細工、牙彫り、べっ甲など、制作側は自分たちが持っている技術で、顧客の関心を捉えようとしました。
一方の着用する顧客側も、和装にジュエリーを組み合わせたり、自身の「粋」の美学に従って、さまざまな注文を行ったりと積極的でした。こうした作り手と顧客の関係ゆえに、生まれた豊かな多様性があったのです。

石川光明作根付(明治から大正期)
石川光明作根付(明治から大正期)
石川光明(1852 年~1913 年)作。世界中で熱烈なコレクターがいる象牙の根付。小さくても存在感のあるうさぎは名工、石川光明の作品。
安藤緑山作根付(大正から昭和初期)
安藤緑山作根付(大正から昭和初期)
明治から昭和初期の天才牙彫師と再評価されている安藤緑山(1885年?~1955 年)の「土筆(つくし)」の象牙の根付。徹底的にリアリティーを追求し、超絶技巧と言われている。現存し、確認されている作品は 50 数点しかなく、非常に貴重な作品である。

ルネサンス以降の美術やあるいはファッションの分野では、芸術家やデザイナーと言う類い希な才能が新しい表現と美意識を作り出すと言うストーリーがなにより期待されてきました。一方のジュエラーが柔軟に顧客の要望に目を向けてきたことは、制作者にカリスマ性を求める近代的な美術の考え方とは相反するように思われがちです。しかし、それも良いのではないでしょうか。これはジュエリー界の美点のように私は考えます。ジュエリーが輝くのは類い希な存在感を持つ着用者がいてこそであり、また、顧客と宝石店との対話から文字通りユニークなジュエリーが生まれてきました。これは古代の為政者たちがパトロンであった時代から共通して言えることなのです。

それゆえジュエリーを並べてみると歴史のなかで美意識がどのように変化してきたのかを見渡すことができるのです。そこにジュエリーが単に美しい工芸品であるばかりでなく、文化的な存在であり、美術館に展示される意味があると私は考えるのです。これからも時代を語り、そして後世に羨ましがられるようなジュエリーが素敵な宝石店での対話の中から生み出されることを楽しみにしています。

関 昭郎プロフィール



現在、東京都庭園美術館学芸員。近代と現代の美術の紹介と平行して、時代のメンタリティーを読む視点から、歴史的ジュエリーとコンテンポラリー・ジュエリーまでの展覧会を企画。代表的な展覧会に「指輪」(2000年)、「ヨーロッパ・ジュエリーの400年」(2003年)、「日本のジュエリー100年」(2005年)、「オランダのアート&デザイン新言語」(2010年)、「オットー・クンツリ展」(2015年)がある。