志と書いてこころざしと読む。この志が宝石業界から、いや日本全体からも失われて久しい。今回の連載で紹介しようと思うのは、小売、卸、デザイナーを問わず、このこころざしを持って仕事をしている宝石商たちだ。
その最初として、帝国ホテルアーケードに店を構える小売店ウエダジュエラーさんを紹介する。ウエダさんは古い。明治17年、西暦1884年の創業であるから、おそらく日本の宝石商としては最古の店だろう。今の社長、植田友宏さんは数えて四代目にあたる。日本だけでなく、西欧でも同じなのだが、宝石商の家系というのは、意外と長続きしない。同じ家系で四代続いている宝石店というのは、イタリアに一軒心当たりがあるが、それ以外では、まあ諸国の小さな町に行けば残っているとは思うが、どの国でも首都にある宝石店で、四代目というのは希である。その意味でも、ウエダさんは希少な存在なのだ。
この記事の最後についている歴史からも分かる通り、ウエダさんでも創業以来、二代目が終わる頃、つまり戦後のアメリカ軍人が跋扈(ばっこ)している頃までは、高級なお土産店であった。今日のウエダを作ったのは、友宏さんの父親である三代目の新太郎さんである。ダンディな慶応ボーイであった新太郎さんは、外国人相手の商売は続くものの、これからは日本人がジュエリーを買う時代になると見抜き、いかにしてウエダを日本人に好まれる宝石店とするかを真剣に考えた。彼が最後に出した結論はこうであった。商売の規模の拡大はしない、商品はすべて自社でデザインし、作り、自分で売る。今でこそ、こんな考えは当然と言えるが、当時の宝石業界は、すべていけいけドンドンの時代、百を超える店舗数が自慢のチェーン企業がいくつもあって、なんでもいいから売れれば良いという時代であったことを忘れないでもらいたい。
そんな中で、店は一軒だけ、商品は全部自社で素材を集め、デザインをし、自社で作る、百貨店などが売りたいと言っても一切卸はしない、すべてのオリジナル商品には自社の刻印を打って責任を持つ、こうしたウエダさん流の商法が、いかに異端のものであったかはお分かり頂けると思う。いや、当時ではもちろんのこと、いま現在でも異端の存在である。それがウエダなのだ。
こうした父親が定めた方針を、いまでも誠実に踏襲しているのが四代目の友宏社長である。ウエダのジュエリーは現在は、友宏さんのお姉さんである植田嘉恵さんと、もう10年以上も社内でデザインに取り組んでいる女性二人を中心にデザインが起こされ、長い付き合いのある一流の職人の手に渡り、作られる。最終的には社長がすべてをチェックし、店頭に並ぶ。今の宝飾業界で、ここまで愚直に、己の売るジュエリーにこだわりを持つ業者は、まずいないだろう。
ウエダさんのジュエリーは、一言にして言えば、賤しさがない、そして端正であるということに尽きる。使う素材にしても、デザインにしても、作りも、すべて最高を求めるということに違いはないのだが、世の中には最高のものを揃えながら、下品であるというジュエリーは多い。有名な海外ブランドでも、そうしたジュエリーはたくさんある。もっともらしい表情で、ただ売れれば良いという考えの海外ジュエリーは多い。どうせ日本人には分からないだろうと、日本に持ち込んでいるのだ。
ウエダさんがジュエリー作りの仕事の基本にしたのが、志であると思う。売れて儲かるかということは、商売人である以上、当然に考えるべきことだが、それしか考えない人の作ったジュエリーが主流となっている業界にあっては、こうした拘りこそが、大事であり、顧客にとっても、長い目で見れば一番得だと、それを黙々と実行しているのがウエダだということを分かってもらいたいと思う。
これまでウエダさんを色々なところで数回に渡って紹介してきたが、今回はウエダという企業の根底にある、自分が売るジュエリーへの拘りと、それがどこから生まれてきたのかを紹介してみた。良い意味での拘りこそが、優れた商品を作り出す道だということを分かってもらいたい。
宝飾史研究家。株式会社ミキモト常務取締役、株式会社ジェムインターナショナル、及び株式会社リオ・インターナショナル代表取締役を経て、執筆活動に入る。『ジュエリーの世界史』『すぐわかるヨーロッパの宝飾芸術』『ブランド・ジュエリー 30の物語—天才作家の軌跡と名品—』『TOP JEWELLERS of JAPAN—日本のトップジュエラー』など著書多数。